日本橋川開削と飯田町駅 2010年9月26日 東京静脈Rクルーズ
日本橋川はその最上流部で神田川から分流する川だが
日本橋川と神田川がつながるようになったのは比較的最近のこと。
その、日本橋川と神田川がつながるあたり、地図ではこのあたりのはなし。
江戸初期に本郷台地を切り開いて神田川がつくられた主要な目的に
大雨のときまちの中心からはずれた神田川に水を流して
日本橋川の川筋にひろがる江戸の主要部を洪水被害から守ることがあげられる。
このとき神田川の放水路としての機能をより確かなものにするため
それ以前に日本橋川方面につづいていた水面が埋め立てられ、
日本橋川と神田川はそれぞれ独立した川となった。
時代は異なるが、この思想は戦前に建設された荒川放水路とも共通する。
そのまま300年近く月日が流れたあと、
1903年になってはじめて日本橋川が上流側に延長され、神田川と接続することになる。
20世紀にはいってからまちのなかに水路を新設する。
河川への関心が薄れていった歴史のなかで、
これは東京では非常に珍しいケース。
ではこの明治の日本橋川の開削はなんのためにおこなわれたものか。
ひとつの理由は鉄道の開業にかかわるものだろう。
明治になって日本橋川が開削された区間のすぐ脇には
1999年までJRの飯田町貨物駅が設置されていた。
飯田町貨物駅の由来をたどれば
東京の西側から都心方向に路線を延ばしてきた現在の中央線が
1895年に都心側のターミナル駅として開業させた飯田町駅にいきつく。
1900年前後の鉄道黎明期につくられた駅には同じように川に隣接する駅がおおくある。
これはおもに貨物の取り扱いで、江戸時代以来有力だった水運との連携を意図したもので
東京では飯田町駅のほかに新橋駅(汐留駅)や秋葉原駅などが例にあげられる。
日本橋川開削の費用の1/4が鉄道会社から寄付によってまかなわれており、
日本橋川の開削が、ひとつには飯田町駅の価値をたかめるためにおこなわれた事業なのだといえる。
ここまではいい。
日本橋川開削と飯田町駅とが関係していることは確かだ。
ただ、日本橋川開削と飯田町駅開業の時期を比較すると
日本橋川開削完成が1903年、飯田町駅開業が1895年
両者のあいだに8年のずれがある。
飯田町駅は開業から8年も、水運を活用できる地の利を得ていなかったことになるが、
どういう意味なのだろうか?
疑問の要点は2つ
前者については
開業時に鉄道と水運との連携が考慮されていたならば、
駅をどこかより川に近い位置で設置するか
駅開業とおなじタイミングで日本橋川開削を完成させたほうが
目的にかなっているようにおもえる。
考慮されていなかったならば、
この時代に水運を軽視できた理由があったことになり
そのこと自体が信じづらい。
後者については
いつの段階で開削案が浮上し、開削の実行までにどのような困難があったのか。
前者への回答にも影響されるが、
駅の計画段階から開削も計画されていて8年遅れの完成ならば、
相当強大な困難にはばまれていたことになる。
あとになって開削が計画されたのならば、
当初の計画を変更して追加投資をさせるだけの情勢変化が
どこかの時点でおこっていたことになる。
どちらにしても明確な証拠にまだあたれていない。
どなたか事情がわかりそうな方はご連絡いただくと幸いです。
いや、こんなに文字を連ねるつもりはなかった。
がちがちの歴史研究を自分でする気もまったくない。
このエントリに限っては日本橋川周辺の景観の変遷過程について(中間方向)なんて参考文献もつけとくけど
今後はもっと気楽にやってくから。