勝島運河 2010年11月21日 LIFE ON BOARD@羽田D滑走路+京浜運河クルーズ

品川区の旧水際線を南北にたどる元なぎさ通りは
北から目黒川を渡ったあと、もと海岸線だった位置にでる。


そのさきを南下した元なぎさ通りを行き止まりにしているのが
勝島運河の水面。
勝島運河


勝島運河のすこし北についても少々。
京浜急行青物横丁駅鮫洲駅のあいだで、
JR山手線西側区間から分岐して大井町駅まで南下したあとの
臨海副都心へ向かうりんかい線の線路が地下をはしる道、
住所でいうと東品川と東大井との境界にあたるところに
鮫洲公園前という名前の交差点がある。
その南西角の鮫洲運動公園は、周囲が陸化したあとも
勝島運河と一体になった水面が残っていた場所。

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勝島運河あたりから南は
もとから陸地だったところと20世紀の人工島とのあいだの
位置的には旧海岸線にほぼ重なる運河と、
その運河を埋めてつくられた公園等のスペースとが、
交互につづいてゆく地域。


勝島運河の旧海岸線区間
元なぎさ通りが途切れるところから南へ、
京急立会川駅からほど近い立会川河口までつづく。
付近の住民しか立ち寄る人がなさそうな静かな水面で
護岸の斜面にこじんまりとした緑化区画がならび、
船がかためて停めてある場所がぽつりぽつりと存在する。
勝島運河奥


勝島運河が終わる立会川河口より南は
運河が埋められた区間
南北に長いしながわ区民公園が立地する。

高浜運河の天王洲運河以南 2010年11月21日 LIFE ON BOARD@羽田D滑走路+京浜運河クルーズ

旧河口の手前でしばらく海岸線と並行して北にむかっていた目黒川の
もとの河道、すなわちいまの運河の最奥部が
東京湾にうつりかわったあたりから
天王洲運河は東へと向きを変える。


そのさきで天王洲運河と交差する南北方向の運河が高浜運河
高浜運河自体はより北からつづいているが
南部では目黒川河口の砂嘴を東の海側にふとらせた埋め立て地の東端と
さらに東につくられた人工島、天王洲の西端とのあいだをとおる。
高浜運河


高浜運河は南で現在の目黒川河口にぶつかる地点までのびる。
目黒川の手前には目黒川水門が設けられている。
目黒川水門
目黒川水門門扉*1
この水門のおもしろいのは
現在の目黒川河口部の水位をコントロールするのではなく
高浜運河側にある目黒川旧河口部を守るようにつくられているところ。
たしかに旧河口のほうは水と陸との距離が近くごみごみしていた。


それでは現在の目黒川河口のほうはというと、
こちらは高い護岸で洪水や高潮の危険から守られている。
目黒川河口


高浜運河の南の突き当たりには区立公園と
2006年から稼働している下水道局の東品川ポンプ所がある。

*1:水門の写真はこのクルーズとは別の日に撮ったもの

目黒川旧河口 2010年11月21日 LIFE ON BOARD@羽田D滑走路+京浜運河クルーズ

品川はもとは目黒川が東京湾にでる河口部にうまれた港町。
江戸時代にはいると東海道の江戸から最初の宿場になり
江戸から日帰りでいける海辺の行楽地として栄えたとのこと。


江戸を南にたって海岸線沿いにすすんできた旧東海道
品川宿あたりの様子は
京浜急行北品川駅から近い商店街に残る。


南北にはしる旧東海道のひとつ東側をはしる道は元なぎさ通り。
品川宿のあたりの江戸時代の水際線をなぞって
南方に鮫洲までつづく。


現在では元なぎさ通りの東方も埋め立てられ陸地になっているが、
北品川の元なぎさ通りに隣接した東側にかぎっては
南北方向にのびる幅のほそい水面があり、そこに船だまりができている。
今回のクルーズの船をだしてもらった北品川 屋形船平井さんがあるのはここの北詰まり。
北品川の船だまりから品川駅方面*1


ここよりすぐ北側には品川駅東口の超高層ビル群があって
屋形船と低層日本建築の背後に超高層建築が立ち上がる様子が
「日本らしい」景色としてしばしばとりあげられている。


品川駅東口の超高層ビル群のうちでも主要な
品川インターシティーと品川グランドコモンズ
鉄道操車場跡を再開発した場所。
昔は操車場の脇にも埋め立てられられずにあった水路があった。


さきほどの写真の水面にもどる。
船だまりがあるのは、
京浜工業地帯のうち南北にながい東京部分の北部をはしる天王洲運河のもっとも奥まった地点。
天王洲運河は東から入りこんできているが
元なぎさ通りにぶつかる手前で折れ曲がって
南北方向に向きをかえている。


すこし南下して水路の行き止まりの地点。
天王洲運河最奥部*2


東京湾に面した京浜工業地帯東京部分には水路が網の目のようにはしる。
そのなかでもっとも奥まった水路は
明治時代までの海岸線とそう違わない位置まで入りこんでいる。


ただし、天王洲運河の突き当たりは
わざとややこしい言いかたをすれば、
明治時代の海岸線よりもさらに内陸側に相当する。


品川は目黒川の河口のまちだった。
目黒川は世田谷区・目黒区・品川区をおおよそ北西から南東にながれる。
この目黒川が東京湾に流れ出る直前の地点で、
南から張り出した砂が河道をふさいでいた。
砂州は北側へとつづき、それにあわせて目黒川も急角度で北に曲がって
その先で東京湾に注いでいた。


天王洲運河の奥にある、南北にながい水路は
目黒川の河口部が北に曲がっていた部分の名残り。
品川は、張り出した砂州は波除けになったいい港だったかもしれない。


目黒川には戦前に河口の急カーブをへず直線で海にでる水路がつくられ、
そのあと急カーブの直後にあたる水面が陸地化された。
さらに旧河口のほうにすすんだ水路は陸地化をされずに
いまでは天王洲運河の一部になっている。


元なぎさ通りのわきには
水面が行き止まりになった南側にも現在の目黒川河口部まで
細長い街区が蛇行気味につづいていて、
ここが目黒川河道跡だと、想像力を刺激してくる。

*1:写真はこのクルーズとは別の日に撮ったもの

*2:写真はこのクルーズとは別の日に撮ったもの

品川区大田区の埋め立て地 2010年11月21日 LIFE ON BOARD@羽田D滑走路+京浜運河クルーズ

都市に新しい「水上経験」をつくることをテーマに活動されている
BOAT PEOPLE Assosiationさんが企画された
LIFE ON BOARD@羽田D滑走路+京浜運河クルーズに参加した。
BPAのイベントに参加するのは、今年だけでも6回目くらい。


今回は品川区と大田区の埋め立でできた水辺を回るコース。


品川の桟橋から出発して
京浜運河の東京区間を、分岐する奥まった水面にも入りこみながら南下。
羽田空港のつけ根をとおる海老取川経由で多摩川下流にでる。
多摩川を東向きに下流方向にすすみ
羽田空港の4本目の滑走路、D滑走路付近の脇をとおり羽田沖まできたら
進路を変えて東京港第一航路を北へ。
大井コンテナふ頭をこえたところで内陸側にもう一度進路を変え
品川の桟橋までもどる。


BOAT PEOPLE Assosiationで準備してくださったコース図があったので
勝手につかわせてもらおう。

より大きな地図で 品川・大田­・羽田D滑­走路リサー­チクルーズ を表示


東京は水辺にできた大都市なので
歴史をかけてたくさんの埋め立て地がつくられてきた。


そのうち今回の品川区・大田区は、もともと南北に海岸線がはしっていたところを
陸にちかい西から東へ、都心にちかい北から南へと
とくに戦後になってさかんに埋め立てが行われた地域。


おおまかにみると西の陸側から東の海側へと

  • 埋め立て前の海岸線をふくむ古い運河
  • 埋め立てでできた古い島
  • あたらしい運河
  • 埋め立てでできたあたらしい島

が細長い板を重ねたようにして縦縞に並んでいる。


このあたりを地図で眺めるたび、
時代がくだるにつれそれまでと性質の違うあたらしい陸地が縞状に付け加わってきた結果を
付加テクトニクスに例えて解説されたらおもしろいだろうなと考えている。

白子宿と白子川 2010年9月25日 スリバチフィールドワーク成増編

武蔵野台地の北のへりを南東から北西につづいてきた川越街道は
白子川を渡るところではじめて切りこんだ谷にぶつかり低地におりる。
白子川を越えたあと、明治時代までの川越街道はいちど角を左に曲がって南西にむかい、
朝霞台の崖の傾斜が小川に削られてゆるくなっているのを利用しながら
北西にむきをかえて武蔵野台地に復帰する。


川越街道が折れまがるあたりに位置していたのが白子の村(地図)。
川越街道の宿場にもなっていた。
熊野神社に湧水がみられるように水に恵まれた村で
酒造りもおこなわれていたとのこと。


白子には、川越街道にそって東武東上線が敷かれたときすぐ付近に駅が設けらず、
そのためまちは大正時代以降さほど繁華街として発展しなかった。
いまでは郊外住宅地に埋もれているようだが、
ここに足を踏み入れると周りとはちがった、歴史の雰囲気がただよっている。
白子
白子


成増団地からみるとここは白子川の上流側、
このあたりでも川は3面張りの護岸にかこまれて直線の流路をとっている。


直線化される前の白子川の河道の一部が公園としてつかわれているところがあった。
公園の地面は横をはしる道路より低く、
川の護岸だったものがそのまま残ったのだろう石組みが
道路とのさかいに腰をかけられるくらいの段差として顔をのぞかせている。
白子川跡の公園


ちなみに上の写真で右側にうつっているコンクリートの斜面は東部東上線の土台。
基本的に武蔵野台地のうえをはしる東上線
白子川の谷底の低地まではおりずに
かわりに盛り土構造をつかって谷を横切っている。
川越街道の宿場町だった白子のすぐそばに駅が設けられなかったのは、
谷底までおりるとなると工事が高くついたからだろうか。

巨大ホチキス 2010年9月25日 スリバチフィールドワーク成増編

百々向川緑道の脇のコンクリート擁壁
縦に大きくはしったクラックをホチキス針のかたちをしたなにかで抑えつけてる。


医療用ホチキスがあるくらいだから
傷口をいじらずに外側から固定するには悪くない構造なのかもしれないけれど
こんなところに使われてるとは思わなかった。


しかしこれ、どんな装置で打ち込んだんだろう。
巨大ホチキス


以上、東京スリバチ学会の成増のフィールドワークに参加したときのことを書いた。


東京スリバチ学会の公式ブログでもこのときの様子がまとめられているのでぜひ。

百々向川の谷 2010年9月25日 スリバチフィールドワーク成増編

菅原神社の足元で白子川に合流する百々向川は
合流地点のすぐ上流で武蔵野台地に切れこんだ谷をつくっている。


このあたりの川跡には百々向川緑道と名付けられた道がとおっている。
百々向川緑道


緑道のわきには井戸ポンプもあり、ここに水脈がとおることを印象づける。
井戸ポンプ


目線をあげると台地との斜面に建物が積み重なる様子がうつる。
百々向川緑道から台地斜面


谷の途中の2か所に、赤塚川の谷戸のものと同じように谷を遮る道路が築かれていて、
連続する一級スリバチが形成されている。


百々向川跡の谷は成増駅北口の前までつづき、
川跡はさらにその先、東武東上線と川越街道をこえて南方向へ、台地の上をすすんでいく。